JEANS FACTORY×BerBerJin藤原裕×
土佐清水市観光協会×Warehouse&Co.
“We still use selvedge denim.”
ジョン万デニムプロジェクト第4弾は、JEANS FACTORYの創業年である「1984年」がテーマです。
「JOHNG MUNG DENIM」が100年続いて、日本のデニムシーンにあったなら・・・
当時の事実をもとに、藤原裕が新たなセットアップをデザインしました。
ジョン万デニムで作った1870年代のデニムジャケットとジーンズのデザインは、当時万次郎が持ち帰ったミシンで縫い上げるため、全てシングルステッチ(本縫い)で作られ、またジャケットも素朴さを感じさせるものでした。それから100年、ジーンズは成長を遂げ、成熟期に入った1980年代。日本に入っていたアメリカ製のジーンズには、まだセルビッチが付いていました。アメリカで5ポケットジーンズからセルビッチが消えるのは、1983年頃のことです。 それは、これまでよりも広い幅のデニム生地を、より早く作ることが出来るようになったため。
そのような「ジーンズ改革期」ともいえる激動のなかでも「JOHNG MUNG DENIM」ならば、コツコツと力織機で織ったデニムでジーンズを作っていたでしょう。なぜなら、万次郎がアメリカから持ち帰ったブルーデニムこそ、ジーンズの生地であるという教えが、後継者たちにも伝わっていたからです。
「JOHNG MUNG DENIM」は、創始者の意向を尊重しながら、工業製品としてのデニムウェアを製造していたと考えられます。ジャケットは「ブラウス」から「Gジャン」へ。ジーンズも「ウエストオーバーオール」から「5ポケット」へと製法も変わりましたが、「ワークウエア」としてのコンセプトは、ぶれることなくそこにありました。
そのようなイメージで作り上げたのが、この「JOHNG MUNG DENIM」の新たなセットアップです。
1984年、ジーンズファクトリーのオープン時、軒先に並ぶアメリカから届いたセルビッチ付きジーンズ。 そして日本のジーンズが世界に羽ばたく、その礎を築いた名立たるナショナルブランドのジーンズ。 それらが整然と並ぶなかにあった「JOHNG MUNG DENIM」。
それはまさに「JEANS FACTORY」の名に相応しい景観であったに違いありません。
ジョン万次郎は、土佐清水市が生んだ、幕末の偉人です。
1841年、鎖国の時代に高知の宇佐湾から漁に出て遭難し、長い漂流を経たのち、アメリカの捕鯨船に救助され、そのまま船長とともに渡米しました。日本人が一人もいないアメリカ東海岸で英語教育を受けたのち、1849 年のゴールドラッシュで西海岸へ。金鉱で帰国の資金を稼いだ後、ハワイを経て琉球へ帰国を果たしたという奇跡の人物です。
1851年の帰国後、鎖国中の日本へ生還した万次郎は幕府から厳しい尋問を受けながらも異国文化を説明し、それをまとめた河田小龍の「漂巽紀略」は、坂本龍馬をはじめとする多くの高知県の偉人が海外を知る教科書となりました。 万次郎は1860年に日米修好通商条約の批准書交換の通訳として再びアメリカにわたりますが、その際にミシンやカメラ、辞書を持ち帰ったといわれています。ハワイから生還した際には、数々のアメリカの反物を持ち帰っており、そのなかにはデニム生地もあったと記載されているため、当時の日本(1870年代)に唯一、ミシンとデニムを持つ存在であるとして、幕末150周年の2015 年、「ジョンマンデニムプロジェクト」が立ち上がりました。
ジーンズが生まれてから100年が経った1980年代は、カジュアルファッションの主役がデニムという時代。Gジャンならば立体裁断のサード型が主流の中、ジョンマンデニムはあえてボックスシルエットのツーポケット型を選択しました。初代のジョン万ブラウスのながれを汲むデザインです。パンツは脇割りにセルビッチを使うオーセンティックな5ポケットでありながら、万次郎が左右反転する写真機の時代に見たジーンズを継承し、通常とは逆位置のコインポケットを用いて、Gジャンと同じ帯の3本ステッチを採用するなど、上下を同じ縫製環境の工場で作った設定となっています。
Size 36,38,40,42,44 / ONEWASH
Price ¥42,000+TAX
デニムジャケットがブラウスからGジャンへと進化を遂げる過程の、その変遷の最も特徴的な部分はそのフィット感にあります。
それまでのワークウェア然としたシルエットから、ヨーク部分や袖付けの角度、バストからウエストまでの曲線など「Gジャン」としてのフィット感を高めたのです。ジョン万デニムではこの変遷に注目しながら、あくまでもワークウェアとしてあった「Gジャン」のスタイルを残しています。
立体裁断の「サード型」が主流の1980年代にあって、ジョンマンデニムはあえてボックスシルエットのツーポケット型を選択しました。初代のジョンマンブラウスのながれを汲むデザインです。フロントヨーク部分は広く、傾斜がついています。ポケットは両サイドに同じ形状が二つ。ポケット口にはセルビッチが使われています。このためポケットの生地は横使いとなり、色落ちした際のアクセントともなります。襟のステッチはカバーオールのようなダブルステッチ。帯とカフス部分も頑強な3本のステッチが入ります。背面は全サイズがT字の剥ぎ仕様(Tバック仕様)となります。戦後には省略されてしまうクラシックな尾錠仕様も、あえてそのまま残しました。やや下に付くジョン万ラベルは新たなディアスキン製。そして万次郎の生まれ年である1827が刻まれたタックボタンをGジャンにはじめて使用しています。
デニムはタテ7番、ヨコ7番の13.5オンス。前作よりもややヘビーオンスとなります。
セルビッチデニムのパイオニアともいえるジョン万デニムならではの、クラシックさを残したGジャンとなりました。
襟のダブルステッチは、オールドワークウェアを彷彿させる仕様。やや下部につけられたレザーパッチもアクセントに
均等に配されるポケットは生地をよこ使いにしているため、色落ちすると顕著に。ポケット口にはセルビッジが使われる
前下がりがやや深めにとられた仕様は、WW2時代までによくみられる。カウボーイがバンダナやスカーフなどを巻く時代の特徴ともいえる
ジョンマンの誕生年である1827年の年号入りオリジナルボタンを使用
リベットは銅製を使用、1980年代には真鍮を使用している時代であるが、ここにも重厚感を残している
裾帯には「ジーンズファクトリー」「藤原裕」「ウエアハウス」のトリプルネームがつく。
前立ての上下、帯部分はモンゴメリーワードの101を製造仕様を踏襲しているため、3本のステッチが入り、折り返しにオーバーロックが入る。
藤原裕によるデザインの特徴ともいえる、全サイズ「T字バック」の仕様
通常80年代には消滅しているバックルバックも現存
手口のカフスも前立てや帯と同じ3本のステッチが入る仕様
付属するバラックバック(巾着袋)。ジョン万次郎の洋装の肖像画をもとにジョンマンデニムを穿いたバージョンにアレンジしたイラストが表裏ともに入る。ジーンズファクトリーの文字が入る仕様。
サイズ | 着丈 | 肩幅 | 身幅 | 袖丈 |
---|---|---|---|---|
36 | 59 | 43 | 56 | 57.5 |
38 | 61 | 45 | 58 | 58.5 |
40 | 63 | 47 | 60 | 60.5 |
42 | 65 | 49 | 62 | 62.5 |
44 | 67 | 51 | 64 | 64.5 |
本製品は防縮加工のないデニムを使用しております。数値は実寸ですが、あくまでも目安となります。本生産時に1cm~2cm程度の誤差は生じます。
Size 30,31,32,33,34,36,38 /
Length 28,30,32 / ONEWASH
Price ¥36,000+TAX
パンツのコンセプトもGジャン同様、ズボンがウェストオーバーオールから、5ポケットジーンズへと変遷する過程を踏まえたうえで、ジョンマンデニムらしいオーセンティックなスタイルを生み出しています。
ジーンズが生まれてから 100 年が経った 1980 年代は、カジュアルファッションの主役がデニムという時代。同時にデニムからセルビッチが消え、「ヴィンテージジーンズ」という棲み分けが終了した時代です。そのようななかでも、ジョンマンデニムはパンツは脇割りにセルビッチを使うオーセンティックな5ポケットであり続けています。また、「5ポケット」の特徴であるコインポケットについては、万次郎が左右反転する写真機の時代に見たジーンズを継承し、通常とは逆に配されたコインポケットとなっています。ウエストバンドの縫製はGジャンと同じ3本のステッチが入る仕様となっており、上下が同じ縫製環境で施工されたという整合性も表現しています。
シルエットは股上がやや浅く、それほどテーパーの強くないストレートですが、初代モデルと比べると股上はタイトにフィットします。ウエストをオーバーサイズにしてレングスをジャストに。もしくはウエストをジャストサイズでレングスをオーバーサイズにクッションさせて穿くなど、サイジングによるシルエットの変化をお楽しみいただけるよう、レングスも3サイズご用意いたします。
クラシックでありながらベーシックに穿ける股上にアップデート。ウエストを上げたり、ジャストで穿くことでシルエットの変化も楽しめる
ジョンマン誕生年の1827年年号入りボタンがトップに使われる
「左右が反転する写真機」でみたジーンズに倣い、今回のモデルでもコインポケットは左に配置
通常のモデルでは80年代では上下が環縫い(チェーン)のウエスト帯部分も、モンゴメリーワードの生産背景のために3本の環縫いが入る仕様に
隠しリベットはなく、バータックにより補強されたバックポケット
バックルバックはとれ、左右均等にホームベース型のポケットが配される。「ウエストオーバーオール」から「ジーンズ」となった象徴的なバックスタイル
鹿革ラベルはデザインはそのままに前回よりアップデート。光沢感のある仕上がりに
アップデートされたホームベース型ポケットには、ジョンマンステッチの「M」が入り、補強のステッチが走る
デニムには上下ともにウエアハウスの定番「バナーデニム」を使用しているため、前回よりも1オンスほど数値が大きくなる。約13.5オンス
付属するバラックバック(巾着袋)。ジョン万次郎の洋装の肖像画をもとにジョンマンデニムを穿いたバージョンにアレンジしたイラストが表裏ともに入る。ジーンズファクトリーの文字が入る仕様。
サイズ | ウエスト | 前股上 | 後股上 | ワタリ | 裾幅 | L28 | L30 | L32 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
30 | 77 | 28 | 37 | 27.9 | 18.5 | 72 | 77 | 82 |
31 | 79.5 | 28.5 | 37.8 | 28.7 | 19 | 72 | 77 | 82 |
32 | 82 | 29 | 38.5 | 29.5 | 19.5 | 72 | 77 | 82 |
33 | 84.5 | 29.5 | 39.2 | 30.3 | 20 | 72 | 77 | 82 |
34 | 87 | 30 | 40 | 31.1 | 20.5 | 72 | 77 | 82 |
36 | 92 | 30.5 | 41.5 | 32.7 | 21 | 72 | 77 | 82 |
38 | 97 | 30.5 | 41.5 | 34.3 | 21 | 72 | 77 | 82 |
本製品は防縮加工のないデニムを使用しております。数値は実寸ですが、あくまでも目安となります。本生産時に1cm~2cm程度の誤差は生じます。
2018年、大政奉還150周年を経た高知県では「志国高知 幕末維新博」として土佐が生んだ偉人ゆかりの地など、高知県内25の歴史文化施設などで貴重な歴史資料の展示を行いました。ジョン万次郎生誕の地である土佐清水市では 「ジョン万次郎資料館」がリニューアルオープンしました。
そして、今回は四国を代表するジーンズカジュアルストア「ジーンズファクトリー」による別注アイテムとして「ジョン万デニムプロジェクト」が新たに結成されました。
「アメリカを伝えた人」ジョン万次郎をオマージュしながら、「デニムタイムトラベラー」となった藤原氏が、その史実にもとづいたフィクションストーリーをご案内します。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。
9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ており、天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は船頭の筆の丞(伝蔵)等、仲間4人と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。
救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づくことはできません。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れます。こうして万次郎はアメリカへと渡ることになり、この時、船名にちなんでジョン・マンという愛称をつけられました。そして万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。
アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励んだそうです。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。1847年にフロリダ号で日本に帰国することを試みて、八丈島や蝦夷地の近くまで達しながら、帰国することができなかった経験を経ていた伝蔵と五右衛門とともに、日本に向けて出航するのでした。
このフロリダ号で、「伝蔵はアーサー・コックス船長より様々な生活用品や衣料とともに、青デニム3ヤードを75セントで購入した」(宮永孝著『ジョン・マンと呼ばれた男』(集英社1994年)とあります。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。そして嘉永6年(1853年)、帰国から約2年後に土佐へ帰郷します。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受けます。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くあります。土佐藩主 山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたといわれます。
同年の嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府の事情があったと考えられます。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任。スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいます。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
この際滞在したサンフランシスコのホテルで、当時アメリカで発売され、大人気であった家庭用ミシンの実演販売を目の当たりにします。そこで万次郎はミシンを購入、初めて日本へ持ち帰ったのです。その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
時間的な余裕が出来た万次郎、その頃懐かしいアメリカの地では洋服に「ジーンズ」というものが生まれ、丈夫な作業着として人気が出ていることを知ります。そして、ハワイからの帰国の際、伝蔵らとともに持ち帰った3ヤードのデニムを使い、一台の貴重なミシンでそのジーンズを作ることを試みたのでした。「ああ、思えばゴールドラッシュでは、人々が「黄金熱」に熱狂していたとき、作業ズボンとしてこんな丈夫なパンツがあれば、大事な3ピースを汚すこともなかったのに・・・」当時、ホイットフィールドとの思い出が詰まった大切な3ピースで金を採掘した万次郎は、そう回想したに違いありません・・・
そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。ジョン・マンこと、中浜万次郎が伝えたアメリカが、日本近代化の礎を築いたといっても過言ではありません。
それから約100年が経ち,
1980年代に「JOHNG MUNG DENIM」なが続いていたならば・・・
ジーンズは成長を遂げ、成熟期に入った1980年代。日本に入っていたアメリカ製のジーンズには、まだセルビッチが付いていました。アメリカで5ポケットジーンズからセルビッチが消えるのは、1983 年頃のことです。それは、これまでよりも広い幅のデニム生地を、より早く作ることが出来るようになったため。
そのような「ジーンズ改革期」ともいえる激動のなかでも「JOHNG MUNG DENIM」ならば、コツコツと力織機で織ったデニムでジーンズを作っていたでしょう。なぜなら、万次郎がアメリカから持ち帰ったブルーデニムこそ、ジーンズの生地であるという教えが、後継者たちにも伝わっていたからです。
「JOHNG MUNG DENIM」は、創始者の意向を尊重しながら、工業製品としてのデニムウェアを製造していたと考えられます。ジャケットは「ブラウス」から「G ジャン」へ。ジーンズも「ウエストオーバーオール」から「5ポケット」へと製法も変わりましたが、「ワークウエア」としてのコンセプトは、ぶれることなくそこにありました。
そのようなイメージで作り上げたのが、この「JOHNG MUNG DENIM」の新たなセットアップです。
帰国後の中濱万次郎
アメリカの水夫のイラスト、捕鯨船の乗組員たちの一般的な服装とおもわれる
前列右端が50歳代の万次郎。1877~1880年代の日本でズボンに革靴を履いていることが分かる珍しい写真
ジョン万次郎について
http://www.johnmung.info/john.htm
BerBerJin
藤原裕
最後のヴィンテージとして、1983年の赤ミミがあります。その時代の5ポケットはスッキリとしていて、オーセンティックなストレートシルエット。当然トップスもタイトなサード型を合わせるところですが、ジョン万デニムならば、最初のモデルからイメージを変えることなく継承しているはずです。そのためある程度ボリュームのあるG ジャンをイメージしてWW2時代のモンゴメリーワードのデザインをアレンジしました。ウエアハウスの塩谷さんには、上下で違うメーカーのデザインソースをもとに、縫製仕様の整合性を合わせ、その環境も合わせることで、完全にマッチするものにしていただきました。ジーンズの帯、ジージャンの前立て、手口などがそのポイントです。襟のダブルステッチと背面の全サイズT バックは自分のこだわりです。またG ジャンのポケット口に付くセルビッチにも注目してください。