土佐清水市観光協会×BerBerJin藤原裕×JEANSFACTORY×Warehouse&Co.
2018年、大政奉還150周年を経た高知県では「志国高知 幕末維新博」として土佐が生んだ偉人ゆかりの地など、高知県内25の歴史文化施設などで貴重な歴史資料の展示を行いました。ジョン万次郎生誕の地である土佐清水市では 「ジョン万次郎資料館」がリニューアルオープンしました。
そして、2年ぶりとなるジョン万デニムプロジェクト。今回は四国を代表するジーンズカジュアルストア「ジーンズファクトリー」が40周年を迎えるにあたり、その記念として再結成されることになりました。その契機に結成されたものが「ジョン万デニムプロジェクト」です。
土佐清水市に生まれ、宇佐湾より漁に出て漂流、アメリカの捕鯨船に保護され、アメリカ東海岸で生活、ハワイを経て、鎖国の時代の日本に帰国した稀有な人物「ジョン万次郎」「アメリカをはじめて伝えた日本人」として知られる万次郎は、日本の開国と明治維新にも尽力した偉人ですが、アメリカから辞書やカメラ、そしてミシンを持ち帰ったことはあまり知られていません。また、漂流した仲間とハワイで再会し、その地でアメリカの衣料の多くの生地を入手しました。そのなかにはデニムもはいっていたと記述されています。
1870年代から1880年代にかけて(明治時代初期)、デニムとミシンを所有していた日本人はおそらく万次郎ひとりであったはず、そして、駆け抜けるようにめまぐるしく過ぎた人生を振り返りながら、余生をゆっくりと過ごすことに決めた彼は、アメリカから入手する新聞(ニュースペーパー)で、デニムの作業着というものが作られていることを知り、このように考えました。「カリフォルニアのゴールドラッシュのときに、こんなに丈夫な作業着があったら、もっと採掘も捗ったであろうに・・・」と、そして新聞にあった写真を参考に、ミシンを動かしてデニムを縫うことを考えたのでした。このようなストーリーをもとに、「ジョン万デニムプロジェクト」はスタートしたのです。ジョン万デニムプロジェクトのメンバーはこの度も土佐清水市観光協会の公認の元、再結成しました。そのメンバーを改めてご紹介します。
デザインは高知県出身のベルベルジン藤原裕氏です。「デニムアドバイザー」としても知られ、ヴィンテージジーンズはもちろん、数々のデニムブランドやメーカーのディレクションも兼任しています。多くのヴィンテージジーンズを扱った経験に裏打ちされたディテールやユニークなギミックを、このジョン万デニムのデザインに落とし込んでいます。生産を担当するウエアハウスは、19世紀のアメリカのワークウェアの再現に古くから取り組んでおり、「ヴィンテージディテールの追及」では世界的に定評のあるメーカーです。土佐清水市が生んだ偉人であるジョン万次郎。土佐清水観光協会の運営する「ジョンマン資料館」には、ジョン万デニムはもちろん、万次郎ゆかりの品物が多数展示されています。そして今回の発起人は、ジョン万デニムプロジェクトの発足より、販売を担当する「ジーンズファクトリー」高知をはじめ、四国で最も多くジーンズを販売してきたという老舗の40週年をお祝いするに相応しいとして、この「ジョン万デニムプロジェクト」は再結成しました。第一弾はジーンズ、第二弾はデニムジャケット、そしてこの度の第三弾は少しだけアレンジされたジーンズとGジャンのセットアップとなります。数量限定での生産となりますが、ぜひこの機会に「アメリカを伝えた偉人」のデニムをご覧ください。
Size 36(S),38(M),40(L),42(XL)44(XXL) / ONEWASH
Price ¥40,000+TAX
1880年代にアメリカで生まれたGジャンの元祖といわれる「プリーツブラウス」のディテールを参考に、万次郎がアメリカの新聞広告のイラストで見たという設定で作られるデニムジャケットです。
フロントの3つのプリーツ、小ぶりなボタン用に縦向きに開けられたシャツ穴のボタンホール。直線的な袖付けのため肩幅が広く、袖丈の短いシルエットなどは、着ると独特のクラシックな佇まいを感じさせます。デニムはもちろんパンツと同じたてが7番よこが10番の12.5オンスデニムです。「万次郎が残り少なくなったデニム原反を使用して、ジャケットを作った」という設定に基づいています。縫製は万次郎の所有するミシンで縫い上げることをイメージ、さらに当時の仕様に沿ったオールシングルステッチ(本縫い)です。背面の折り伏せのT字に見える縫製は、ベルベルジン藤原裕のフェイバリットディテールです。ジョンマンデニムプロジェクトの第三弾として発表する今作では、糸使いをファーストモデルのジョン万デニムパンツに合わせて、「オレンジの綿糸」を基調にした仕様で仕上げます。さらに、ボタンはブルズアイタイプとなり、バックルの尾錠も19世紀に実在したタイプに変更いたします。
※ジョン万次郎のイラストを前後にプリントしたオリジナルバラックバックつき
※ブルズアイボタン仕様
Size 28,29,30,31,32,33,34,36,38 / ONEWASH
Price ¥36,000+TAX
過去2度の生産モデルも好評により完売した、ジョンマンデニムパンツをパート3として製作することになりました。
Gジャンとのセットアップを意識して、縫製糸の色を同じもの{オレンジ)に合わせております。また、「写真撮影による左右の反転」によって左につけられたコインポケットは、ファーストモデルと同じ仕様を再現しました。
トップボタンとサスペンダーボタンには「1827」という年号が入るオリジナルボタンが穿たれます。これはジョン万の誕生日である1827年1月1日の年号です。
※ジョン万次郎のイラストを前後にプリントしたオリジナルバラックバックつき
「アメリカを伝えた人」ジョン万次郎をオマージュしながら、「デニムタイムトラベラー」となった藤原氏が、その史実にもとづいたフィクションストーリーをご案内します。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。
9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ており、天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は船頭の筆の丞(伝蔵)等、仲間4人と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。
救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づくことはできません。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れます。こうして万次郎はアメリカへと渡ることになり、この時、船名にちなんでジョン・マンという愛称をつけられました。そして万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。
アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励んだそうです。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。1847年にフロリダ号で日本に帰国することを試みて、八丈島や蝦夷地の近くまで達しながら、帰国することができなかった経験を経ていた伝蔵と五右衛門とともに、日本に向けて出航するのでした。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。そして嘉永6年(1853年)、帰国から約2年後に土佐へ帰郷します。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受けます。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くあります。土佐藩主 山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたといわれます。
同年の嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府の事情があったと考えられます。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任。スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいます。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
この際滞在したサンフランシスコのホテルで、当時アメリカで発売され、大人気であった家庭用ミシンの実演販売を目の当たりにします。そこで万次郎はミシンを購入、初めて日本へ持ち帰ったのです。その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
時間的な余裕が出来た万次郎、その頃懐かしいアメリカの地では洋服に「ジーンズ」というものが生まれ、丈夫な作業着として人気が出ていることを知ります。そして、ハワイからの帰国の際、伝蔵らとともに持ち帰った3ヤードのデニムを使い、一台の貴重なミシンでそのジーンズを作ることを試みたのでした。「ああ、思えばゴールドラッシュでは、人々が「黄金熱」に熱狂していたとき、作業ズボンとしてこんな丈夫なパンツがあれば、大事な3ピースを汚すこともなかったのに・・・」当時、ホイットフィールドとの思い出が詰まった大切な3ピースで金を採掘した万次郎は、そう回想したに違いありません・・・
そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。ジョン・マンこと、中浜万次郎が伝えたアメリカが、日本近代化の礎を築いたといっても過言ではありません。
帰国後の中濱万次郎
アメリカの水夫のイラスト、捕鯨船の乗組員たちの一般的な服装とおもわれる
前列右端が50歳代の万次郎。1877~1880年代の日本でズボンに革靴を履いていることが分かる珍しい写真
ジョン万次郎について
http://www.johnmung.info/john.htm
このフロリダ号で、「伝蔵はアーサー・コックス船長より様々な生活用品や衣料とともに、青デニム3ヤードを75セントで購入した」(宮永孝著『ジョン・マンと呼ばれた男』(集英社1994年)とあります。